自由を求めて:ベルリンの壁最後の犠牲者、クリス・ギュフロイ

1989年11月、冷戦の終結を象徴するかのように、長い事東ドイツと西ドイツを隔てていたベルリンの壁が崩壊、東西ドイツは急速に統一へと向かいます。1961年にベルリンの壁が作られてのち、実に28年ぶりの出来事でした。

しかし、東西ベルリンを長い事隔てていたベルリンの壁は、その28年の歴史の中で、多くの犠牲者を出しました。ベルリンの壁設立以降、多くのドイツ人が自由を求め、東ドイツからの脱出を試みますが、その過程で、1200人におよぶ人々が亡くなったと言われています。あるものは警備兵に射殺され、あるものは溺死しました。

1989年2月、壁を乗り越えようとしてあるドイツ人の若者が射殺されます。彼の死は、ベルリンの壁崩壊からわずか9か月前のことで、これは実質上、ベルリンの壁における最後の死者として記録されています。

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ベルリンの壁の建設と亡命気運

1945年、多大な犠牲者を出してベルリンは陥落、ナチスドイツは降伏し、第二次世界大戦における欧州戦線は終結します。幸か不幸か、日本本土に侵攻したのはアメリカだけでしたので、結局日本がソ連などによって分割されることはありませんでしたが、ドイツの場合、戦争末期、西は米英に、東はソ連によって侵攻されている形であり、それゆえ、戦後の東西分裂の悲劇を招きました。

ライヒスターグの赤旗

とはいえ、西ベルリン、東ベルリンの双方の往来は、分割された当初は比較的容易でした。そのため、東西ドイツ成立以降、次第に東ドイツの知識人たちが、東ベルリンを経由して西ベルリンに流出していくこととなります。

この事態を、ソ連と東ドイツ政府は重く見るようになりました。流出を防ぐためには、物理的に東西を遮断するしかありません。1961年8月、突如として東ドイツ政府はベルリンの壁を建設、西ベルリンは東ドイツから隔離される形となりました。

もっとも、この最初の工事は東欧お得意のずさんなもので、管理体制も大したことが無く、建設から2~3年の間は、亡命を志す東側国民にとってはボーナスステージのようなものでした。トンネルを掘って西に逃げるもの、警備隊を買収するもの、など、1964年までは、比較的容易に亡命も行えていたようです。

しかし、東ドイツも馬鹿ではないので、次第に警備の質も向上していき、1964年を迎えるころには、亡命はほぼほぼ鎮静化されました。壁は一つではなく、金網や警報などが設置され、車での突破を防ぐためにお濠が掘られ、無人地帯では無数の監視塔と警備犬などが24時間体制で脱走者に目を光らせるようになりました。

ここから、ベルリンの壁を越えての亡命はまさに「運否天賦」の命がけの大博打と化すのです。

亡命による最後の死者:クリス・ギュフロイ

Kilometerweit gellen die Schüsse durch die kalte Nacht. Karin Gueffroy hört sie, kurz vor Mitternacht, in ihrer Wohnung in Berlin-Treptow. Ihr ist klar, dass gerade wieder einmal am Todesstreifen zwischen Ost- und West-Berlin eine Flucht gescheitert ist. Aber sie ahnt nicht, dass die Schüsse ihrem Sohn gegolten haben und dass er Minuten später stirbt – am 6.Februar 1989 gegen 0.15 Uhr.

「数キロ先で銃声が冷たい夜を切り裂いた。24時ちょっと前のことで、カリン・ギュフロイは、ベルリンのTreptowにある自宅でその音を聞いた。これが、ベルリンの壁を越えようとした誰かが射殺された音であることは確かである。しかし、彼女はその銃声がまさか彼女の息子を撃ったものであり、その数分後、彼が息を引き取ったとは夢にも思わなかった。」

ベルリンの壁を越えようとして射殺された最後の犠牲者の名前は、クリス・ギュフロイという若干20歳の若者でした。

結果論として、彼があと数か月辛抱さえすれば、東西ドイツは統一され、彼は射殺されることなく、堂々と西ドイツへの往来を許されたこととなります。にもかかわらず、彼には亡命を急がなくてはいけない理由がいくつかあり、それが彼の命を奪うことになりました。

まず、一つ目に、彼の徴兵期日が差し迫っていたことです。徴兵に駆り出されてしまえば亡命の機会は失われますし、何より彼自身、徴兵に行くことを強く拒んでいたとのことです。

Anfang 1989 beginnen sie, konkrete Fluchtpläne zu schmieden, denn Gueffroy steht die Einberufung zum Wehrdienst bevor

「1989年の初め、彼ら(クリスとその友人)は、本格的な亡命プランを立て始めた。クリスが徴兵に駆り出される前に行動を起こさなくてはいけない。」

そしてもう一つ、このタイミングでなくてはいけない理由がありました。この時期、スウェーデンから首相が東ドイツを訪れており、この期間、警備兵が脱走者を射殺することはないと、彼らは信じていたのです。

Außerdem glauben sie, dass der Schießbefehl für die Grenzer ausgesetzt sei. Denn kurz zuvor war Schwedens Ministerpräsident Ingvar Carlson zu Besuch in Ost-Berlin; bei hochrangigen Staatsvisiten, so geht das Gerücht, werde an der Grenze nicht geschossen.

「彼らはこの期間、発砲令が撤廃されていると信じていた。その直前にスウェーデンの首相が東ドイツを訪れており、こうした高名な人物が訪れている際には、発砲令は撤廃されるという噂が流れていたのである。」

彼と彼の友人は、亡命の数か月前からすでに、そのための計画を立て始めていました。発砲令廃止の情報なども、おそらく、そうした計画の最中に、彼らの耳に入ってきたものでしょう。結局、この情報は天啓などではなく、最終的に彼の短い人生に幕を下ろすための決定打となってしまいました。

2月5日

運命の日、2月5日、彼とその友人は、歩哨に見つからないように、すでに壁の周りに広がる菜園地帯を、2時間半かけて匍匐前進で横断することにしました。2月のベルリンと言えば、まだ寒さが残る過酷な時期です。その冬の寒空の中、2時間半も田園地帯を匍匐前進したクリスとその友人の心境はどのようなものだったのでしょうか。

さて、ベルリンの壁は、現在ベルリンに観光名所として残されているようなただの「壁」ではありません。幾重にも警報装置がついた金網、警備兵や犬が巡回する中間地帯、堀、もう一つの壁を乗り越えて、初めて西ドイツに亡命することが可能なのです。

クリスとその友人は、歩哨に気づかれることなく、なんとか匍匐前進で壁のそばにたどり着きました。しかし、ここから彼らは、幾度となく亡命者の命を刈り取ってきた「ベルリンの壁」を越えなくてはいけないのです。

ベルリンの壁

まず、上の図でいうと「3」に当たる「後背地の壁」は3,5メートルの高さです。それを超えるといわゆる「射殺対象」となるゾーンが開始します。その後、4番の金網があり、歩哨が行き来する中間地帯を抜け、最終的に現存する有名な「ベルリンの壁(11番)」を越えることで、西ベルリンに亡命可能なのです。

Gegen 23.30 Uhr überklettern Gueffroy und Gaudian die Hinterlandmauer hinter der Parzelle 52 und machen sich damit nach DDR-Strafrecht der „Republikflucht“ schuldig

「23時半ごろ、クリスとその友人は後背地の壁を乗り越えた。このゾーンを越えた瞬間、彼らは“亡命罪”の責を負うこととなった。」

文字通り、後戻りはできなくなりました。彼らはこの最初の壁を乗り越えた瞬間、西側諸国への期待と、まだいくつかの障害を越えなくてはいけない不安で満ち溢れていました。ところが、彼らの破滅はすぐに訪れました。

Doch als Gueffroy und Gaudian durch den Signalzaun schlüpfen, löst einer von ihnen den Alarm aus. Die beiden jungen Männer rennen trotzdem weiter, Richtung Westen.

「彼らが金網を潜り抜けようとすると、けたたましく警報が鳴り始めた。二人の若者はそれでも、警報を無視して西に向かって走り出した」

壁の次は金網ですが、これを越えようとした瞬間、無情にも警報装置が冬の寒空の下に響き渡りました。と、同時に警備兵が勢いよく集まってきます。

ピストルを備えた警備兵たちが「止まれ!」と叫びますが、彼らは耳を貸さずにこの無人地帯を全速力で走り抜けます。無人地帯の長さは約60メートル。成人男性であればものの10秒とかからずに走り切れる距離です。

後ろからはピストルを持った警備兵が追ってきますが、彼らの目指す、自由の国、西ベルリンはあと数メートル先にあります、止まるわけにはいきません。全速力で無人地帯を駆け抜けると、彼らは最後に彼らの目の前に聳える物理的障壁、約4mの「ベルリンの壁」にたどり着きました。

この時点で、追手たちはまだ彼らの40m後ろにいたと言われています。クリスは、友人を肩にのせ、先に壁を越させることにしました、自由は目の前です。

In diesem Moment ist Henrich bis auf etwa 40 Meter an die beiden Fluchtwilligen herangekommen. Sein Kamerad Schulz ruft ihm zu: „Schieß doch!“ Henrich kniet sich hin, reißt die Kalaschnikow hoch und drückt ab. Zwei Schüsse feuert er auf Gueffroys Beine, trifft auch. Dann gibt er einen dritten Schuss ab, jetzt auf den Oberkörper des 20-Jährigen gezielt.

「この瞬間、Henrich(警備兵)は彼ら亡命者たちの40mほど遅れをとっていた。彼の同僚であるSchulzは“撃つぞ!”と叫んだ。Henrichは、膝をつくと、ピストルで狙いを定め、引き金を引いた。二つの弾丸が火を吹き、クリスの足を貫いた。そして、Henrichは三つ目の弾丸を撃ち込んだ。これが、クリスの胸を貫いた。」

クリスが友人を肩に乗せたことが災いしました。彼の友人も同じく被弾したものの、かろうじて致命傷は免れますが、クリスのほうは心臓を撃ち抜かれます。彼らの亡命劇は終焉を迎えました、クリスの友人はクリスの肩から降りて投降します。クリスの側は、しばらく苦しんだのち、やがて息を引き取りました。

クリスの母は、この銃声を自宅で聞きました。実際に彼女が、実の息子の死を聞かされたのは2日後のことです。これが、公式に残されているベルリンの壁における最後の犠牲者です。

クリスの死とその後

クリスの死は、無駄死にであったと言われていますが、本当にそうでしょうか。クリスが殺されたことによって、世界各国は東ドイツ政府への非難を行います。国際的な孤立を防ぐために、ホーネッカー(東ドイツの指導者)はクリスの死から2か月後の4月、非人道的な発砲命令を撤廃します。

同年、東欧革命が勃発し、ハンガリーが鉄のカーテンを撤廃、東側諸国の人々はハンガリー経由で西側に亡命できるようになり、もはやベルリンの壁の意味が薄れました。この東側諸国の体制崩壊を目の当たりにし、ついに東ドイツでもホーネッカーに対する大規模なデモが発生します。結果的に、こうした名もない大衆の衝動的な運動によって、ベルリンの壁は崩壊し、東西ドイツは統一を迎えます。

ドイツの月曜デモの光景

彼らをこうした市民運動に駆り立てた感情のどこかに、クリスの死が無かったとは言い切れません。歴史はいつも偶然に動きますが、そこには理由があります。経済的なひっ迫感、自由の弾圧、西ベルリンへ逃れようとして築かれた死屍累々の山、こうした不満が東ドイツ国民を統一運動に駆り立てました。

クリスや、自由を求めて射殺された多くの若者の死に対する理不尽さと怒りの感情が、少しずつ東ドイツの人々の中で燃料のようにたまっていたのではないでしょうか。それが最終的に東欧革命によって着火し、ベルリンの壁を崩壊させるための大衆の爆発を引き起こしたのだと、私は思います。

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